+ 共依存・アダルトチルドレン

電子うさぎ

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共依存スクリーニングテストというものを考案して公開してくれているサイトがあります。

「@21世紀家族研究所」というサイトを公開してくれている方がいるのですが、ネットに散らばっている、悪い意味での共依存やアダルトチルドレン・嗜癖(依存)の無駄な意味づけを一切省いているので、「攻撃されている」という感覚にならずに、静かに自分を見つめる事が出来る資料を提供してくれています。

共依存は、英語ですと「Co-Dependency」と表記します。
Co=共同・共通・相互、Dependency=頼ること・信頼する事・依存 です。

「お互いに、お互いを頼っている状態」を共依存という日本語に置き換えています。

確かに、金八先生の説明する「人という字は、お互いに頼る・助け合う事」というのも、もっともなのですが、「人がお互いに頼りすぎちゃうと共倒れになってしまいますよ」という説明も必要ではないかと思います。
(間違っていないのですが、完璧な正解でもありませんし、一人で生きる事も間違いでは無いと思います)


アダルト・チルドレンというのも、「現在大人であって、過去に何らかの暴力が蔓延していた場所で子供時代を過ごした人」と、私は解釈しています。

Adult who had been victims and survivor of child abuse の Adult + child を抜き出したカタカナでの「虐待被害者=アダルト・チルドレン」かなあと、思います。


お酒をやめられなくて家族に当たり散らす家庭に育った人は、常に暴力を受けている状態でその幼少期を過ごします。

虐待に関しても、自分以外の誰かが暴力を振るう中で、その幼少期を過ごします。

そんな過酷な状態の中で、本来は屈強に守られるべき命を守られずに生き抜かなければならなかった・・・というのは、悶絶するほど辛いものです。

「過去を引きずるな」と言われても、過去を消す事はできませんし、幼少期に作った生き抜く方法を保ったまま大人にならざるを得なかったのは、忘れれば済むというものではありません。

「暴力がある状態が普通」として育つと、「暴力のない世界の普通」とは、感じる感覚が違います。

両者には、目に見えない深い溝があります。

お互いに違う意味で「普通」という言葉を使うのですから、両者が話をすると「お互いに理解できない」という状態になります。


表面上は同じ人間ですが、中身が全く違います。


「一般的な普通」の中で暮らす事は「暴力がある状態が普通の環境で育ってきた人」にとっては「異世界」ですし、「異星人」に感じます。

両者がどう歩み寄るかという問題は、これから先、やっと「暴力がある状態で育った人」が表面化し始めたので、「暴力が無い状態で育った人」が、ようやく、その存在が分かり始めたという段階で、まだまだ時間がかかると思います。

SFの話ではなく、実際に現実に、まったく異質の感覚を持ち合わせていて、同じ人間の形をしているのに歩み寄れない状態では、どちらもイライラして、お互いを排除してしまったりします。


異文化交流(例えば、日本国外の人と、日本の人が交流する事)だったら、相手の事を知ろうとするのが、その第一歩になります。

その第一歩を踏み出さない方が楽でしょうし、相手の事を知ろうとしなければ第一歩を踏み出す必要もありません。しかし、実際に目の前に異文化から来た人がいたら、その第一歩を踏み出すか踏み出さないかを迫られます。
無視してもいいのですが、あまり好ましい事とは思えません。


私は、アダルトチルドレンとして生活していて、「普通一般の人」がに怪物見える事が多いです。現実でも、自分の心にどこまで踏み込まれるのか怖くてびくびくしています。

何でもない無害な人まで怪物に見えるというのは、単に認知が歪んでいるのではなく、「ニンゲンに虐げられたらニンゲンという生き物に対して恐怖感を抱く」という正常な反応です。


しかし、「暴力がほとんど無かった中で育った人たちが大多数の世界」なのは、色々なところに住んでみて、頭では分かっているのですが、やはり、ニンゲンが怖いです。


ただし、不思議な事に映画を見たり本を読んだりするのは大丈夫です。

映画や本の中から人間が飛び出してきて、直接私に暴力を振るわないからです。

まるで、ドアののぞき穴から外の世界を少しだけ垣間見ているという感覚です。

映画や本は、境界線がハッキリしているから大丈夫というのもあります。


現実の世界では、境界線がハッキリしているわけではありません。

でも、自分と他者の境界線をしっかり保つ事が出来るのは、自分にしかできない事だと分かりました。

境界線(boundary)は、人や動植物ならだれでも持っている「自分と他の物の境目」だと思います。
「ここまで入ってこられると気分が良くない」「ここから先に踏み込んではいけない」という物理的・精神的な境界線の事です。
その境界線は、一人ひとり違いますが、どの生物も必ず持っているものだと思います。(全ての生物に出会った事が無いので、曖昧ですが・・・)


共依存(Co-Dependency)を抱えて生きていると、「他者と自分の境界線がハッキリ認識できない」という恐怖を抱える事になります。

それは、虐待の過程で、加虐者が虐待被害者に対して、常に境界線を無視してきたからです。

「入ってこないで」「踏み込まないで」と、いくら思っても、伝えても、容赦なく踏み込んでくる他者に対して、無力感を感じます。同時に、絶望しています。

その苦しみが理解されない事で、二次被害をこうむることも多いです。


被虐待サバイバーは、誰が相手でも「自分の境界線を越えて踏み込まれた」と感じると、追い出そうとする行動に出ます。

しかし同時に、共依存という感覚もあるので「誰かに頼りすぎる」という感覚も感じます。

外から見れば、「相手を攻撃して追い出そうとしているのに、相手に縋りついている」という矛盾した言動になるので、「普通一般の、暴力が無い世界で育った人」から見れば「意味不明で怖い」と感じるのではないかと思います。

被虐待サバイバーは、そういう方法で、密室で行われてきた暴力から身を守ってきました。


私は、被虐待の過去を持つ者ですが、「他者との境界線が分からない」という意味が分かりませんでした。

自分と他者の間に、境界線があるということも知りませんでした。

踏み込まれても限界まで我慢して、踏み込まれすぎると攻撃したり、逃げたりというのは、「非常時に戦いか遁走かの選択しか持っていない人」の生い立ちにあります。

「過去を忘れればどうにかなる」というものではありません。


「ひきこもり」や「社会不安障害」や「強迫神経症」や、「人間不信」と呼ばれるものは、全て、誰かから証拠の残らない精神的な暴力を含む全ての暴力を受けて「逃げる事も出来なかった、戦う事も出来なかった。でも、自分の命が危険だと感じていたから常に自分の感覚を研ぎ澄ませながら、自分の感覚を鈍麻させ、自分の境界線を消してしまう事で生き延びてきた人」と言えるのではないでしょうか。

それだけの事を暴力のない世界で育ってきた普通の人が理解できなくて当然です。守られて生きてきたのですから。


虐待は目に見えません。

人との境界線も目に見えません。

暴力は、第三者が目撃していなければ、見えない事になります。


分かり易く、ナイフで傷つけられたり、打撲痕が残っていたり、体に傷がついたりすれば「目に見える証拠」があるので、第三者である他者が認識しやすく、第三者が介入できることも多いのですが、精神的な暴力は「目に見える証拠がない」ので、暴力を受けた人の言動を判断できる材料がないというだけです。


家庭内・近親者・友人・仕事の場での人間関係における暴力(ドメスティック・バイオレンスや、ハラスメント、abuse)は、第三者の目の届かない場所で行われています。

無視・ちらっと見て舌打ちをする・舐めるように見て目を逸らす・身体的な事を証拠が残らないようにチラッと言葉にする(太った・痩せた・二重だとか一重だとか、なんでもかんでもです)・あらゆる行動に対して口を出す・人前ではなくすれ違いざまにため息をつく・・・数えきれないほどの暴力の振るい方があるのに、「証拠が残らない」というだけで、暴力であることが認識されずに来ました。


本来なら「生きている事自体を否定する」という事は暴力以外の何物でもありませんが、「証拠が無ければ立証できない、理解できない」というのは、いかにも原始的な立証方法だと思っています。


DV(ドメスティック・バイオレンス・家庭内暴力・虐待)が表面化しないのは、加害者が「証拠が残らない方法」を知ってか知らずかわかりませんが、証拠を残さない方法で加害しているからです。


簡単に逃げられるものなら逃げていますが、逃げられないからこそ苦しく辛く、生きる精神力さえ奪われる暴力が蔓延しているのに、「証拠がないから無かった事になる」というのは、本当に原始的だと考えています。


過酷な暴力下で生き抜いてきた人(アダルトチルドレン)を、「分からないから排除する」というのも、いかにも原始的です。

暴力の元で生き抜いて、生き抜く方法が共依存だった人を「分からないから排除する」というのも、いかにも原始的です。


科学は、「見えないものを見えるようにする」「分からなかったことを、認識するために数字や表や形にして表す」というものです。
分からないもの、見えなかったものを認識することによって、どういうものなのかがハッキリすると、次に進めるというのが科学の進歩というものです。

暴力も「見える物になる」という方向に向いてきました。


暴力の被害を見られるようにし、被害者をよく知り、被害者が自分の立っている場所を分かり易くして、加害者を際立たせることによって加害者を無力化するという事は、今の科学でも可能です。


日本は法治国家ですが、どうも、法を使う人が科学に弱いように感じます。

(せっかく警察でも科学捜査が進んでいるのに、未だに物的証拠のみが証拠とされている場面も少なくありません)


被害者がこれ以上傷つかないように被害を伝える方法は、原始科学的な方法でも応用すればできると考えています。

「子供が虐待に遭っていても、証拠がない、言葉になっていない」は、単なる言い逃れのように感じます。言葉に出来ない事が動かぬ証拠の場合の表現方法があるはずです。

例えば、「特定の言葉を避けて話す」(自分が傷つく言葉を避けるのは、怖い目に遭ったからです)とか、沢山の単語のなかで、際立った反応がある(心拍数が上がるとかの交感神経が活発に活動する)ものを並べていくと、被害の状況がハッキリわかるとかです。

加害者は「やってない」「知らない」「覚えていない」かもしれませんが、被害者は何らかの事象は記憶が消えているようでも身体的な反応をします。
(被害者が暴力に遭った時の記憶を消すという防御反応をしていても、体が反応するのではないでしょうか)

ただし、被害者は「これ以上傷つきたくない」と心底から思っていますから、心や精神、脳を傷つけない方法で、被害状況を探ることは、現在ではもうできているのではないでしょうか。



暴力の被害者であるのに、共依存だから排除しよう、アダルトチルドレンだからどうのこうの・・・というのは、あまりにも乱暴です。


共依存やアダルトチルドレン、機能不全家族などの言葉が、被害者を追いつめないための言葉であるという事は、そろそろ共通認識として知れ渡ってもいいのではないかと思います。

これだけネットが世界を網羅しているのですから・・・



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最終更新日2018-11-26
Posted by電子うさぎ

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