映画/渋谷(2010・邦)

電子うさぎ

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藤原新也さんというカメラマンの撮る写真は、鋭い。

両刃の刃物のようにも感じる。

そして、同じく、彼の書く文章や言葉も鋭い。


映画/渋谷 は、綾乃剛さんが主演だったのか、女性が主役だったのか分からないけれど・・・

ラストシーンは「一般大衆向け」に変えちゃったのだろうな・・・と思う。(原作を読んでいないので分からないけど)

日本映画って、そんなに一般大衆に媚びるものでしたっけ?(ハリウッドは、一般大衆向けの娯楽を量産していますが)


藤原新也さんなら、映画/渋谷のラストシーンは全てカットするか、違う風に描くと思うんだけどなあ。

彼の写真と文章に出会ったのは「東京漂流」という単行本でした。その前に「メメントモリ」かも。その後「アメリカ」だったような。

完全に「尖って乾いた世界」を切り取る天才で、そこには言い知れない肉の感触があります。


ただ、虐待を題材にした映画だとしたら、「愛を乞うひと(1998・邦・原田美枝子)」の方が、真実味はあります。

長く続く虐待の後に、虐待された人(被虐待サバイバー)は、様々な形で虐待後後遺症に翻弄されて苦しみ続けます。(もちろん私もそうでした)

苦しく、長く続く煩悶には、自分でケリを付けなければならないという現実があります。

それって、被害者だったら、誰でも経験する事ではないかと思います。

「元被害者」になる為にもがくのは、被害者になって初めて経験するものですが、その人を外から見ると分からないと思います。

心に負った深い傷は目視できませんから。


幼い頃からの虐待は「支配と服従」の構図です。

そこから抜け出すのは、一度殺された心を生き返らせるという地獄の底に穴を掘るような苦しみを伴います。

決して「明るい未来」が約束されたわけではない中での、ドクドクと血が流れ続けている心の傷を抑え続けて、何とかして欲しい、何とかしたいとさまよう様子は、戦後の焼け野原の様相を呈しています。

今は、日本は一応戦争や紛争地域ではないので、そういう状態を想像しにくいのでしょうね。


1900年代前後~の日本の小説や、その当時の文節を読んでいると分かるのですが、「誰もが命がけで生き抜いていた時代で、戦争に次ぐ戦争の中での閉塞感」は、尋常ではありませんでした。

(大正デモクラシー・大正ロマンというのは、聞こえは良いですが、その中での生活は想像を絶する厳しさがあります。学校で教えない事や、教科書に書かれていないのが不思議です)

祖父は大正生まれで、戦争を経験していたので、私が虐待されている事を一目で見抜いた人でした。仲間と共に生き抜いて生還して、長期に渡って戦争後後遺症と闘い続けて、亡くなるまで苦しかったのは、祖父の介護と看取りをして分かりました。

祖父は散歩が好きでしたが、兵舎があった場所には、最期まで決して近づこうとしませんでした。

そういう世代が何を望んだかというと、「非暴力の世界」でした。


映画/愛を乞うひとは、戦争の動乱の中での暴力と暴力が暴力を呼んでしまう事に、自らのケリをつけて、「非暴力」に転じる道筋を描いた作品です。

もちろん、原作と映画では違う場所が多いのですが、「暴力が暴力を呼ぶ」という物を止めるのは、「非暴力での生き方を貫く」しかないのだと、私の経験から思います。

祖父が、暴力を体を張って停止させた生き様は、実は、私の父親を「非暴力な人」にしました。そして、私も「非暴力」を受け継いでいます。(心身・性的暴力は実母からだけでしたので、それは幸いだったのかもしれません)

残念なことに、母親は「暴力には暴力を、そして次の世代にも暴力を」というループから抜け出せない人でした。
母の兄弟は5人いるのですが、どの人も「非暴力」な人ですので、やはり、実母は一人だけ「突然変異」の種だったと考える方が妥当です。


暴力のループを断ち切るのは、周りの色々な力を借りて、「非暴力による戦い」をしなければなりません。


映画/渋谷は、その出発点の話です。

映画/愛を乞うひとは、「暴力を受けた人が、非暴力によって生き抜く生き様」の話です。

この二つのお話は、切り離す事が出来ないお話のように感じます。


暴力の渦中にいる時は、自分をそこから救い出す為に、人を含む動植物の力を借ります。ニンゲンアレルギーの私でも、「信じられる人」を探す事を諦めませんでした。

暴力の渦中から抜け出したら、「自分は独りではない」という確信を得るまで、何十年もかかります。心の傷や、殺された心は容易に「独りではない」という事を受け入れられないほど、血みどろになって痛いですから。

でも、一度「自分は独りではない」と確信したら、安全な場所で、これまでの事を振り返って何十年もかかって、その深い傷を消毒したり、縫ったりします。
殺された心や傷をもう一度繋げる事は、一人では容易ではありませんから、「独りではない」と確信した時に助けてくれた人が、その人のできる範囲で関わってくれるだけで、痛みが少しずつ、ほんの少しずつ引いていきます。


今の日本で、暴力を受けた人の「緊急処置」(ファーストエイド)と、その後の支援(サポート)がほぼ無いのは憂うべき事ですが、暴力を受けた人が、一人一人、血を吐きながら作り続けた「非暴力による生き様によって作り続けた道」は、近いうちに「見える」ようになると思います。


映画/渋谷のラストシーンで、女の子が「家に帰る」のですが、現実としての最善の対処は「帰らないで逃げ続けた方が良い」という風に、道筋をつけ続けている人たちがいます。私もそうです。

虐待を受けた人が「家に帰ってハッピーエンド」は、残念ながらありません。

藤原新也さんが、そんな簡単な事を知らない筈はありませんので、「映画になっちゃうと、一般大衆向けにハッピーエンドっぽくしなくてはならないんだなあ。ちょっとモヤモヤする」と感じます。


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最終更新日2018-11-26
Posted by電子うさぎ

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