本「ゆれる」/西川美和 (2018.6読了)

電子うさぎ

電子うさぎ

映画「ゆれる」を観る度に、大揺れに揺れるので、原作を読みたくなって読んだら、前回映画を観た時とは全く違った感じ方が頭をもたげてしまった。

監督に、良いように振り回されていて、この話に対して、私はよもや依存症のようになっている。

また次回は違った事を勝手に書くのだろうと思う。



私は、今回は「猛」だったのだと思う。

実際、実家を一番最初に飛び出したのは私だった。

実家は、暴力にまみれ、怒号が飛び交い、大人である両親が子供を殴り、精神的に追い詰め、泣きわめき、誰もがグズグズと文句を垂れ流し、姉は私を殴り、弟は小さくなっていた。

私とは言えば、母親の玩具であり、八つ当たりと愚痴のサンドバッグであり、家族のピエロであり、何かあれば私がすべて悪いというスケープゴートであった。そして「何でもやる奴隷」でもあった。家族の潤滑油であり、優しい良い子だった。

ここまでは、稔と同じだ。

私がいつも感じていて、何よりも迷惑だったのは、「あんたなら分かってくれると思う」という言葉で始まる家族からの言葉と、殴りながら頼ってくる鬱陶しさだった。

私は18で家を出た。

出た理由はこの際何でも構わないと思った。


家の中は破壊されつくされているのに、余所向きの顔は「良い家族」「良い夫婦」「良い兄弟・姉妹」「血の通ったすがすがしい家族」だった。

気味が悪かった。

私は、そんな気味悪さは、誰にも一度も顔にも出さなかったし、誰にも言わなかった。

だから、私が実家を飛び出した時、誰もがあっけにとられたような顔をしていた。

「分からない」とか「家に帰りなよ」という人までいた。迷惑だった。


十代で海外に行き、そこで過ごし、家を飛び出した先は実家からは遠く離れた日本で一番巨大な都市だった。

友人は、日本人にはほとんどいなかった。

日本人の級友は「家族に恵まれ、暴力も無い」というぬるま湯に浸かっているノンビリとした人達で、生まれた時から「平和が当たり前」「大切にされているのが当たり前」であって、私には縁が無かった。

タフに生きている日本国外の友人や大人たちの方が、よっぽど力になってくれていた。


それでも、学費を出してくれた祖父の介護と看取りはした。

母親は祖父に「介護をするから養子にしてくれ。そして財産をくれ」と言っていたのだが、結局一度も顔を見せずに財産だけは懐に入れた。
私は、いっとき祖父と父親と穏やかな日々を過ごしていたけれど、母親からすれば、相変わらず私は「頼みごとなら何でも聞く奴隷」でしかなかった。
(父親は母親から離れていると、穏やかな人だった)

その母親が、「家族」という言葉を連発し続けていた。

私は、血縁という言葉に対して反吐が出ていたし、戸籍法を芯から憎んでもいた。分籍してもなお「血縁」や「家族」を押し付けてくる日本という国が気味悪かった。

私は子供を一度亡くし、その後追いをしようとした。でも失敗した。

その時、母親は「いい勉強になったでしょ。家族に戻りなさいよ。血がつながっているんだから」と声を高らかに、店中に響き渡る声で言った。死ねない、子供を亡くした私の心情より「家族」「血縁」の方が、あの女には大切だったらしい。偽物なのに。

あの女は「人生ゲーム」から、私が勝手に居なくなった事が我慢できないらしかった。世間に顔向けできない、家族の形を保ちたい、血縁者なんだから一緒にいるべき・・・・

私は、また巨大な都市に戻った。

「血縁者だから」「母親だから」と、私の住んでいる場所に現れて「家族再生の夢」を押し付ける事10回以上。その度に私は仕事を変え、住所を変えた。

気味の悪い長い舌を出しながらウネウネとゆっくりと近づいてくる蛇のような女が心底気持ち悪かった。


戸籍から除籍してもダメならと、一度は婚姻という制度を使ったが、それでも追いかけてくる。

次第に不安定になっていく私に、相手の男は暴力を振るうようになっていった。

その男は、暴力を振るわれずに育っていた。「親に文句を言うなんて許せない」と言っていた。


迷わず別れた。


一人で生きて行くしかない、苗字が何だ、血縁なんてこちらから切って切って切りまくると決めて、まだ幼い猫さんと暮らし始めた。

日本では、初めて感じる開放感だった。

猫さんには、心が自由でいてほしかった。それだけだった。そして、「飼っている」だなんて思わなかった。暮らして貰ってるのはこっちだったからだった。

血が繋がっていない者同士、やんわりとした空気の中で生活をしていた。

自分の命より大切だった。

「家族」や「血縁」から、私は完全に縁を切って、自分の好きなように暮らし始めた。

好きな仕事が軌道に乗るまでは夜も昼も無かったけれど、猫さんに当たり散らしたり愚痴を言う事は決してしなかった。その代り、一緒にお散歩に行った。

一緒に歌を歌ったり、話が有れば聞いた。彼女が一緒に居たいと言えば、仕事は彼女が寝ている時間にやればよかった。

私みたいに、自分のご飯の準備をやらせたくなかったし、家事全般を任せて袋叩きにしたくなかった。

彼女が楽そうにしてくれているのを見ると、ありがたいと思った。

彼女は「家族」や「血縁」とは関係のない、純粋に「お互いに居たいから一緒に居る」という関係だった。

きちんと好き嫌いを言ってくれてほっとした。私は、自分の好き嫌いを表に出すことが許されなかったから、本心からホッとしていた。


そういう中で育ってくれた猫さんがある時、今一緒に住んでいて一応戸籍は一緒の男が、猫さんに初めて会った時に男の膝の中で眠ってしまった。

彼女は「安全」という事を知っている。

私には分からない感覚。

その猫さんが「眠る場所」は常に安全な場所だった。


名字を変える。それでも血縁が切れない戸籍にイラつきながらも、苗字だけでも変えた私は、「夫」という肩書を持つ男を盾にした。

心からの「安全」とか「安心」を感じる事は、母親から手紙が来る度に、電話が来る度に打ち砕かれて感じる事が出来ずにいた。

おまけに「親戚だから」「血縁者だから」というだけで、図々しくも私を意のままにしようとする親戚が居た。
そちらの対応は簡単で、全てに於いて「拒否」(手紙は読まない・来ても開封しない・受け取り拒否・電話は拒否・彼らが私の住所を知っていてものらりくらりとかわす、荷物は受け取り拒否、着信は拒否等)すればいいだけだった。ハエみたいな奴らに用は無い。


向こうからすれば、私は「家族と血縁から逃げた裏切り者」だったのかもしれない。


「ゆれる」で、暴力にまみれた生活から足を洗い、家族を持ち、暴力を受けた事のない妻と暮らし、娘を持った洋平がいる。
洋平は「なぜ子供を持たないのか?」と、すっかり「ぬるい人」になってしまっている。
彼は、単に自分が暴れていただけなのではないかと思う。現に、その町から出ていない。
多少毒があっても、毒抜きを手伝ったのは妻であり、娘だ。そして妻のお腹の中の子供だ。
ぬるま湯に慣れると、猛の気持ちも、稔の気持ちも、その親父に対する気持ちもヌルイものになるのか。

この物語で、唯一と言っていいほど第三者の洋平には、所詮他人の家の中の毒は見えないという事か。


「ゆれる」の原作のあとがきに、香川照之さんが「塀から出て、弟に初めて言った言葉が、家に帰ろうだった」と、原作者が最後に余韻を残した後を引き継いでいた。

現実は、家族の再生は絶対にない。

今回も、すっかり監督(原作者)に、心を揺らされてしまった。

今回私がこの本を読んだ時、家を飛び出して血縁を疎ましく思い、閉鎖空間から逃げ出した猛の視点に立っていた。


「家族の誰の為にも良く動き、良い人で、和を乱さないように動き回る人。優しくて棘が無い人。とにかく良い子」は、その閉塞感を人一倍感じている。

私が家を飛び出すまでは、そうだった。


「家や血縁を切ろうと、外に飛び出すかどうかは、本人次第」と考えていた私が、血縁者で作られている村に「よそ者」として入り込んだ事で見えてきたことがある。

「家長」である「家の主・親」の権力が絶大だという事。

「逃げる」「外に出る」という選択肢は最初から無いという事。

「血縁者の意向には、逆らってはいけない」という掟。


「ゆれる」の稔(長男)が、そのままリアルにいる場所で暮らしていると、彼らの動きが緩慢で、何も特徴が無く、好きなものも嫌いなものも無く、生活の中で村から出て行きさえしない暮らしをしている。

国は「家族が一番」だとか抜かしているけれど、その犠牲者は、国が明らかに他人事として言っているよりずっと深刻な問題を抱えている。


私も、「ゆれる」の猛(次男)と同じように、好きな事をやっていても常に付きまとわれている感じがぬぐえない。

でも、私は猛みたいに「お兄ちゃんは優しい」と思い込んでいる感傷的な女々しさ等は無い。「お兄ちゃんだから甘えていた」という甘さも無い。


この間、「家族」という単位で、署名をしなければならない事態があった。

姉は、母親に飼いならされた字をしていた。

弟は、誰よりも小さな字を書いていた。

母親は、いつもの様に「他人に向けての余所行きの顔で、澄ました字」を書いていた。

私が一番大きく伸び伸びとした署名になってしまっていた。


数十年ぶりに見た彼らの字が、昔よりもずっと歪んでいるのが分かった。

それらの字を見て、私はこれまでずっと自分が「家族・血縁の檻」の中に居ると思っていたのだけれど、もうそこにはいないのだと分かった。


そこには、私は居なかった。


もう逃げなくても良いのだと、心底思った。

彼らは、檻から出ない。出る選択肢を失っている。長い年月で、出るという選択肢を自ら放棄してしまった。


サイコパスの人生ゲームのボードから、私は本当に姿を消している。


一緒に居たいからと一緒に居てくれた猫さんが、逃げようとはしなかった。(時々家の外に散歩に出ていたけれど、何となく帰ってきてた)

夫は「婚姻」を形式的なものだと考えていて、どうやら、好き好んで家に帰ってきているようだ。

「血縁」「戸籍」は、意味が無い。


いつまでこの国は、いつまで日本という島国は、「戸籍」「家」「血縁」にしがみ付いていくつもりなのだろうか。

島自体が、リアル八つ墓村になっている。

この村も、私はよそ者だから良いけれど、八つ墓村に相違無い。


それにしても、やはり、稔(長男)が、最後になぜ笑ったのかについての感想は揺らがなかった。

稔は、小さな閉鎖的な街からも、血縁・家からも(元犯罪者は氏名を変える事が出来る)、その狭い世間からも、親兄弟という家族関係からも自由になったのだと思う。

稔は最初からそれを望んでいたのだと思う。

やってもやっても報われないアリジゴクから逃れたいという執念を持ち続けていたのだと思う。

母親をいたわっていたのは本当だと思う。次男の猛が自由にしているのが眩しくて兄弟だとも思っていたのに憎んでいたのも本当だと思う。父親のサンドバッグになって耐えられない気持ちを押し殺して怨念にまでなっていたのも本当だろうと思う。周囲の無言の圧力から結婚を迫られても自由になりたかったのに、女性を好きだったのも本当なのだと思う。自信なんてこれっぽっちも無かったのも本当なのだと思う。長男という重荷に潰されて動く事すらできなくなったのも本当なのだと思う。

「家」から解放されたいと、誰よりも思っていたのは稔だったのだろうと思う。

犯罪者になるように猛を操って、父親を弱らせて、解放され勝ったのは、稔なのだと思う。


やはり、最初に観た時は、「兄貴がなぜ家に帰らないのか?」という疑問が残っていたけれど、私が今いる「村」という場所に住んでいると、「我慢に耐えかねていて、牙を抜かれている。逃げる気力などもう昔に失った。家長はいつまでも死なないのに介護を押し付けられている長男」を沢山見ていると、「稔は解放された。しかも35ならまだ間に合う」と、ホッとしさえする。


私は、猛のように「兄ちゃん!」なんてセンチメンタルに走り寄らない。

この村の子供たちは、一人も帰ってきていない。

それが、日本のこの村の現実だ。



関連記事
最終更新日2018-11-26
Posted by電子うさぎ

Comments 0

頂いたコメントは公開しておりません。

+++コメント・メッセージ・感想はコチラへ+++

頂いたコメントや感想は、表示いたしません。
ご自由にご記入くださいね
(すみませんが、お返事はしておりません)