映画「ユリゴコロ」 (2017・邦)

電子うさぎ

電子うさぎ

幼い時に興味を持つ対象というのは、本当に様々です。

この映画で、最初にイヤ~な感じを受けたのは「母親が白衣の医者の所に幼子を連れて行って、人間失格という烙印を押されて、それを鵜呑みにしている」というシーンでした。

2018年現在、精神科・心療内科が幼い子や大人になるまでの10代の人に対して、親や学校・精神科・心療内科が行っている事と重なっているのではないかと思い、ゾッとしました。


幼い頃は、ヒトの場合「死」という物に魅せられる期間があります。

山の田舎で育った私もはっきり覚えているのですが、幼稚園の頃にオタマジャクシを解体したり、トンボの羽を取っちゃったり、アブ(大きな黒い蜂)を半透明の容器に入れてその中にキンチョールを噴射して眺めていたり、カエルの卵が水槽に一杯になった所に田んぼの泥を混ぜたり・・・切りが無いです。

それは、虐待されていたからではなくて、「死」という物が分からなかったからだと思います。

私は、今はゴキブリさえ殺せなくて、ゴキブリにタオルをペシペシして、ゴキブリが一度気絶した時に、タオルでそっと包んで、外の草むらにポイっと投げて逃げて帰ってくるほどです。(その後、ゴキブリは元気に草むらの中を移動していきますので、他の家に向かうのでしょうか、どうなのでしょうか?)


この映画の、一番のホラーな部分は、「診察のシーン」でした。

子供が親と知らない大人から「この子は変だ。障害がある」と言われる事ほど残虐な事はありませんから・・・

そして、子供が親の言うように「良い子」にしているためには、「親が私を変だと認識している」に合わせるんだと思います。私も母親の虐待を虐待ではなく「当たり前の事」だと思っていましたし、親の要求に応える事で「こちらを向いてもらえるのかもしれない」と思っていた時期がありましたから。

主人公の彼女の行動の発端の数分間のシーンが、一番のサイコホラーだと思って、ゾッとしました。


そして、「この子には心が無い」と言われたら、その通りにしていればいつか親が振り向いてくれるかもしれないと・・・

だから、主人公の一連の心の動きに対して、私は納得できました。


この映画がサイコパスものだとして作られたかどうかは分かりませんが・・・

本物のサイコパスは自分では手を下しません。

米国で「サイコパスは100人に何人」というデータもありますが、その中には反社会的人格・自己愛性人格も含まれているデータで、「本物のサイコパス」は専門家(プロ)でさえ騙すのが当たり前なので、ちょっとそのデータは充てになりません。

なぜなら、サイコパスはヒトを「自分のゲームの駒(生きているとは思っていないが、面白い動きをするのでやめられない)」として遊びますので、「専門家を騙す・欺く」となると、それだけゲームが高度になって楽しくて仕方がないんです。

これは、実母がサイコパスだったので、実際にそれを体験したのですが、母親の場合は「精神科医は阿呆だ。簡単に騙されるのよ。」という言葉を残しています。
専門家も一応精神科医がどういう人であっても「生きている人」には変わりませんので、「ゲームの駒として弄ぶ(もてあそぶ)相手」ではありません。
サイコパスにとって、難易度が高いゲームの方が面白いという事です。
なので、米国であろうと、欧州諸国であろうと、アジア諸国であろうと、「専門家が出したそのデータ、合ってます?」という疑いは消えません。

1990年代にFBIに居たロバート・D・ヘアという方は一般向けに「犯罪で捕まってしまったヘマなサイコパスの事例」を載せてくれている「診断名サイコパス」という本を出してくれています。
犯罪心理学の中でも、連続殺人等の犯罪を追いかける時にはプロファイリングという物を利用する場合があるのですが、今現在では、その犯罪を全て数字に置き換えてほぼ「科学捜査」としてデータ処理をする方法に切り替わっています。

なので、米国ドラマの「クリミナルマインド」のように、「行動の分析の理論でなんとかする」という方法は今では使われていないと思います。


この映画の主人公は「当たり前の子供」だったんです。

だからこそ、数分の「医者に子供の心を全否定する、それを親も認めて、そのフィルターを通して子供を見る」という事自体がホラーなのだと感じました。


親だって神様じゃありません。

うちのサイコパスなんて、母親としたら最初から「悪魔を超えている」という状態でしたから、余計、「親だって神様じゃない」というほうが当たり前なのだと思います。

喜怒哀楽がある親が、子供に一生懸命に生きる姿の背中を見せるというと古臭い言い方ですが、本当に「親の背中を見せる」のが、親の仕事であって、「子供をマトモなニンゲンにキョウイクする」というのは、ちょっとゾッとしないです。


これまで、こういう映画のように予告編で「怖いですよ~」という触れこみの映画を観る事が出来なかったのですが、最近、サイコパス毒親がスカッと消えてくれたお蔭で観る事が出来るようになりました。


私の場合、唯一恵まれていたと思うのは、幼い頃から父親が「書庫」という物を持っていて、写真を撮るのが好きで、自然の中で思いっきり遊ばせてくれた事でしょうか。

もちろん、それらはサイコ母が「夫が思い通りにならない駒なので、始終当り散らして、父親がそこから逃げるために私と弟を家から連れ出すという口実で本来の自分として、伸び伸びできるように工夫した事」だったのかも知れませんが、それが大人の理由だとしても、「伸び伸びしている父親」という背中は、とても心地の良いものでした。

ただ、父親がサイコパス母から攻撃されている時に、父親も受けて立ってしまうので、その仲裁は非常に大変でした。
その場の空気を瞬時に読み取って、「あっち向けホイっ」と二人を向かせてしまうと喧嘩が収まり、お皿も飛び交わなくなるし、物も壊れないし、怒号が飛び交うのも終了しましたので、少し大きくなった時には「やめなさいっ!喧嘩は外でやんなさい!」と怒鳴るのは、私の仕事でしたが・・・(どっちが親だったんだろう)


この映画には、「娘さんの父親」が出てこなかったように思います。(もう一度観てみようかな)

もしかして、現在も「父親不在」「母親が子供を医者に連れて行って、何とか障害という病名を付けて、マトモなニンゲンにキョウイク・リョウイクする」というのは、実際にある事なのでは?と、想像してしまいます。

リアルホラーです。


ヒトも動植物も、自分も、全ての自然も何一つ「自分の思い通りにはならない」のに・・・


映画で「脳が過剰適応してしまった女性が心の中に本物の寂しさを抱えて、それでも、何かを探す」のは、当たり前かもしれません。

過剰適応ってのは、戦争の時もそうですが、「その異常な状況に過剰に適応してしまって、自分を見失ってしまう非常に怖い状態」です。

その一例として、スピルバーグ監督作品の「太陽の帝国」という映画に出てくる男の子が「過剰適応してしまう」という状態を上手に描いてくれています。



生き延びるための、限界を超えた努力をさせてしまい、大人が簡単に子供の一生を奪う事は、あまり好ましいとは思えません。


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最終更新日2018-11-26
Posted by電子うさぎ

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